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愚溪寺

(ぐけいじ)

枯山水庭園の臥竜石庭は京都の龍安寺のモデル

岐阜県可児郡御嵩町にある愚渓寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は大智山といいます。美しい枯山水庭園「臥竜石庭」が有名です。この石庭は、京都の龍安寺の石庭の原型となったと言われています。

歴史

創建と初期の歴史

愚渓寺の前身は、応永16年(1409年)に美濃春木(現御嵩町御嵩)に設けられた「無著庵」という草庵です。この草庵は、のちに京都龍安寺を開山した義天玄承禅師が応永35年(1428年)に中村鈴が洞の地(現御嵩町中)に移転し、愚渓庵と改称しました。これが愚渓寺の始まりとされています。

義天玄承禅師は、妙心寺五世としてその名を知られ、応永35年(1428年)には印加状を受けました。その後、義天玄承禅師は美濃へ戻り寺を創建し、十八年間にわたって愚渓庵を看院しました。

中興と江戸時代の発展

天正10年(1582年)、龍派禅珠が住寺職となり、中興の祖とされました。この時期に寺は大いに栄え、美しい枯山水の庭「臥竜石庭」が整備されました。天正18年(1590年)には徳川家康により寺領40石が安堵され、以後、徳川家代々の保護を受けました。

慶長年間には2度の火災に見舞われましたが、再建を助けたのは当時の芝村の代官であった熊沢忠勝でした。

臥竜石庭

愚渓寺の石庭「臥竜石庭」は、京都の龍安寺の石庭の原型ともいわれる美しい枯山水の庭です。平庭に白砂が敷かれ、現在は3つの石と松が配されています。かつては7つの石が用いられ、臥龍形(臥して横たわる龍の形)を表現していたと伝えられています。

歴史的背景

愚渓寺の前身「無著庵」は、応永16年(1409年)に美濃春木に設けられました。のちに義天玄承禅師が応永35年(1428年)に移転し、愚渓庵として創建されました。現存する伽藍は、江戸時代(天保年間1830-1844年)に移築整備されたものです。

文化財

愚渓寺には、以下のような貴重な文化財があります:

二重塔(多宝塔)

愚渓寺の二重塔は、江戸時代後期の天保年間(1830-1844年)に建立されました。二重塔の棟梁は美濃が誇る宮大工の匠・野村杢頭作十郎国均野(野村作十郎)です。

栽松軒

本堂近くには茶室「栽松軒」があります。これは明治13年(1880年)、明治天皇が中山道御巡幸の際に多治見の西浦家に宿泊された際に使用された茶室であり、二十四世の太源清道が買い入れて移築したものです。

再建と移転

愚渓寺は、鈴ヶ洞にあった時代に度重なる山崩れや湿地帯の問題に直面し、天保10年(1839年)から嘉永2年(1849年)までの10年間にわたって現在地へ移転しました。移転後も愚渓寺は繁栄し、文化財として多くの重要な文書や美しい庭園が保存されています。

近代の修復

平成19年(2007年)には、本堂および位牌堂の新築工事が行われました。これにより、愚渓寺はさらに美しく整備され、多くの参拝者を迎える場所となりました。

Information

名称
愚溪寺
(ぐけいじ)

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