朝倉山真禅院は、岐阜県垂井町にある天台宗の古刹です。行基菩薩によって739年に創建され、古くから霊験あらたかとして知られています。境内には、国指定重要文化財の三重塔や本地堂、県下最古といわれる梵鐘などがあり、歴史と文化を感じられるスポットです。
境内と景観
真禅院の表参道は緩やかな石段が続き、上がっていくと紅葉の境内から垂井の町並みを一望することができます。
寺院の概要
真禅院は岐阜県不破郡垂井町に位置する天台宗の寺院で、山号は朝倉山です。山号にちなみ、朝倉山真禅院、朝倉寺、または単に朝倉山とも呼ばれています。かつては南宮大社の僧坊でした。
本尊と歴史的役割
本尊は無量寿如来(阿弥陀如来)と十一面観世音菩薩です。無量寿如来は南宮大社の本地仏でもあります。この寺院は平安時代から霊験があるとされ、承平天慶の乱の際には朱雀天皇の勅令により平将門調伏祈願が行われ、前九年の役の際には後冷泉天皇の命により安倍貞任追討祈願が行われました。
重要文化財と伽藍
真禅院は多くの重要文化財を所有しています。三重塔、本地堂、梵鐘などが国の重要文化財に指定されています。また、境内には干支の守り本尊(守護仏)があり、西美濃三十三霊場第十七札所、美濃七福神(大黒天)としても知られています。
神仏習合と寺院の変遷
真禅院は近隣の南宮大社と関係が深く、かつては神仏習合の信仰が行われていました。明治初年の神仏分離に伴い、南宮大社内の仏堂や仏塔、僧坊が現在の真禅院に移築されました。
伝承と史実
伝承によれば、真禅院の前身は天平11年(739年)に行基によって創建された象背山宮処寺(ぞうはいさんぐうしょじ)とされています。その後、延暦年間(790年頃)に最澄によって南宮神社と両部習合され、神宮寺と改称されました。
『続日本紀』によれば、天平12年(740年)に聖武天皇が宮処寺を訪れたことが記されています。現在、岐阜県垂井町には宮処寺跡とされる奈良時代の寺院跡があり、岐阜県の史跡に指定されています。
近世から現代までの沿革
文亀元年(1501年):火災で焼失
永正8年(1511年):美濃国守護土岐政房により再建
慶長5年(1600年):関ヶ原の戦いで南宮神社とともに焼失
寛永19年(1642年):南宮神社の再建とともに真禅院も再建
明治元年(1868年):神仏分離により現在地に移築
昭和57年から昭和59年(1982-1984年):三重塔の修理
平成27年から平成30年(2015-2018年):本地堂の修理
伽藍と文化財の詳細
本地堂
本地堂は旧南宮大社本地堂で、国の重要文化財に指定されています。寛永19年(1642年)に再建され、明治初年に現在地に移築されました。平成27年から30年にかけて大修理が行われ、屋根の形状や部屋の間仕切りなどが修復されました。
三重塔
三重塔は寛永20年(1643年)に再建され、国の重要文化財に指定されています。高さは25.38メートルで、当初は南宮神社境内に建っていました。昭和57年から59年にかけて修理が行われました。
梵鐘
梵鐘は奈良時代後期の作品で、国の重要文化財に指定されています。高さ165センチメートル、鐘身129センチメートルで、東海地方最古の鐘とされています。
鐘楼
鐘楼は寛永19年(1642年)に再建され、岐阜県の重要文化財に指定されています。
鉄塔
鉄塔は応永5年(1398年)に改鋳され、岐阜県の重要文化財に指定されています。北条政子が夫である源頼朝の死後、全国の社寺に寄進したものの一つです。
観音堂
観音堂は神護2年(766年)に創建され、町の重要文化財に指定されています。かつては「宝珠院」と称し、南宮大社奥之院として機能していました。
真禅院の文化的意義
真禅院は、その歴史的背景と文化財の豊富さから、多くの人々にとって重要な場所となっています。平安時代から現代に至るまで、さまざまな歴史的イベントや人物に関わってきたこの寺院は、日本の宗教史や文化史において欠かせない存在です。
訪問案内
真禅院は岐阜県不破郡垂井町にあり、訪れる人々に静かで美しい景観と深い歴史を提供しています。紅葉の季節には特に美しく、訪れる価値があります。また、国指定重要文化財や岐阜県指定重要文化財を直接見ることができ、その歴史的価値を体感することができます。
朝倉山真禅院は、歴史と自然が調和した場所であり、訪れる人々に静寂と安らぎを提供しています。長い歴史を持つこの寺院で、過去と現在が交差する瞬間を体験してください。
鉄道
東海道本線 垂井駅南口より徒歩約30分
バス
垂井町巡回バス 垂井・宮代・表佐線(さわやか号)「朝倉運動公園」下車、徒歩約2分
車
名神高速道路
関ケ原ICより約10分
養老スマートICより約15分
東海環状自動車道
大垣西ICより15分